本校の歩み
大正2年
(1913)
3.01
3.22
4.04
5.27

11.09
11.21
 第3学年、飛行機の飛場(豊橋)見学。
 卒業証書授与式(卒業生男子15名、女子5名)
 入学式(入学生22名)
 松井愛知県知事、丹羽校長を新城に招集し、本校の状況を聞く、新聞紙上にて、作手村が久しきに渉りて経営したことは天下の美事なりと賞賛された。
 丹羽校長、静岡県周知郡立農林学校に転任する。
 第3代新居鶴造校長赴任する。

松井知事から褒められる
 大正2年5月27日、時の愛知県知事松井茂博士は、丹羽校長を新城へ招いて、本校創設以来の沿革など詳細な事情を聴取された上、「作手村が一村をもって久しきにわたりこの学校を経営したるは天下の美事なり云々」と新聞紙上に大きく賞賛談話を発表したが、当時としては珍しいことであった。
 これは開校15年を過ぎた年のことであったが、村としても大いに面目を立てたこととして喜びあった。

校長異動
 この年(大正2年)の秋、丹羽校長は静岡県周智郡立農林学校へ転任。後任は新居鶴造校長を四国の徳島県から迎えた。
 新居校長は温厚な人柄で授業も丁寧、ばくはん(麦飯)の奨励に熱心であったことも有名な話である。家庭訪問の時などにはまず第一に、ばくはんの効果を説き、これを奨められたほどで、当時、既に「ばくはん校長」の尊称さえあった。



本校の歩み
大正3年
(1914)
3.24
4.07
11.02
11.09
 卒業証書授与式(卒業生男子9名、女子4名)
 入学式(入学生33名)
 職員・生徒一同、本宮山に来拝、戦勝を祈る。
 青島陥落祝賀式を挙行する。

 
バルカンの銃声(第一次世界大戦)
 静かな山村にも、やがて大きく教育の動向をみきわめて新しい世界観の上に立って学ばねばならないきびしい事態が刻々と迫ってきた。

 大正3年6月セルビアの一青年が、たまたま外遊中のオーストリア皇太子を狙撃暗殺するといった事件が突発した。このバルカン半島の人隅に起きた一発の銃声が導火線となって、第一次世界大戦へと拡がった。
 当時の欧州は各国がそれぞれ自国の産業貿易の伸張と植民地政策に競争がかけられていたが、だんだん勢力を張り出してきたドイツの進出を恐れ、イギリス・フランス・ロシアが三国協商を結成した。これに対抗して、ドイツ・オーストリア・イタリアが三国同盟を結び、何かと均衡を保っていた。ところが、この事件が引き金となって、オーストリアはセルビアに宣戦を布告し、三国協商を結んだ国家はセルビアをたすけて立ち、三国同盟側と戦うこととなった。後、アメリカ・日本が三国通商側に参加し、いよいよ世界の主な国々が二つに分かれて戦う事となった。
 このとき日本は、中国の青島、南州諸島へ兵を進めた。この戦争に作手村から9名の出征兵を送ったが、全員無事凱旋した。



本校の歩み
大正4年
(1915)
3.23
4.04
4.27
5.02
7.31
9.01
10.9

10.25
11.14
 卒業証書授与式(卒業生男子12名、女子4名)
 入学式(入学生男子19名、女子14名)
 新居校長退職する。
 夏目伊之助氏宅を女子部仮教室とする。
 第4代森崎順二校長赴任する。
 授業後、馬セリ市場見学。
 修学旅行(秋葉神社、周智郡立農林学校興津農商務省農事試験場、豊川原蚕製造所を見学)(〜13)
 第18年開校記念式。
 大嘗祭、高里青年会と連合して、大礼奉祝陸上運動会。

科学する態度
 世界大戦の戦場には目新しい兵器が出現した。この相手国の化学兵器の威力と、その背後を語る科学工業の発達、耐乏生活の下における国民の旺盛なる勤労意欲と無駄を省いた生活の合理化、強健な体力作り、などの実情を直接、間接に学びとったことは吾々が日清・日露の両役を通してややもすると自己の力を過大評価しがちであった態度に対して、大きな刺激と教訓を投げかけた。
 文部省は第一次世界大戦における教育の指向を理科教育の振興に向け、それと並んで体育の重視、勤労教育の推進に力を注いだ。こうした教育の傾向は時代に浸透して大正教育の主軸となった。そして戦後の昭和時代に入って、豊かな物質文化を自らの手でよく開発し得るに至ったのも、戦後に目覚めた対象の教育に負う所が多かったと思われる。


校長異動
 大正4年に新居校長は退任せられ、後任に幡豆郡立農蚕学校教諭であった森崎順造先生が第4代校長として着任された。森崎校長は謹直な人格者で、学校の儀式なども几帳面に取り行い部落の祭礼などにも自ら生徒を引率して参拝さられた。着任の年の秋、4泊5日の日程を修学旅行を行なったが、たまたま戊申詔書下賜記念日が旅行日程と重なるというので、旅行先で奉書式を行ったと伝えられる。



本校の歩み
大正5年
(1916)
3.23
4.07
9.04

 卒業証書授与式(卒業生男子9名、女子7名)
 入学式。
 松井本県知事、巡視される。
大正6年
(1917)
3.14
3.24
4.05
4.03
8.4
9.18

9.21
9.22
9.25
10.10
10.12
 農林学校敷地決定相談に、学校長列席。
 卒業証書授与式。(卒業生男子14名、女子10名)
 入学式。(入学生40名)
 森崎順造校長群馬県へ転任する。
 第5代丸茂忠雄校長赴任する。
 丸茂校長役場へ出頭する。校舎新築の急を訴えて、有志協議会開催を促して帰る。
 校友会学芸会を開催。
 加藤村長、阿部助役、丸茂校長校舎新築の相談をする。
 村長、助役、校長、敷地候補下検分する。
 本村学校青年連合運動会開催(於開成小)
 修学旅行(津、伊勢、京都方面。)
この頃、校舎新築の会合が盛んに行われ、校長出張す。

 
校長異動
 大正6年には森崎校長が群馬県へ出向となり千葉県海上郡立旭農学校教諭の丸茂忠雄先生が第5代校長として着任された。校長は着任早々役場を訪ねて、教育効果の向上施設の整備が第1であることを力説、速やかに校舎新築の方途を講ぜられるよう進言した。



本校の歩み
大正7年
(1918)
1.02

1.24

1.25
1.29
2.01
2.09


2.10

3.23
3.31
4.05
4.10
4.13

6.21
 本校同窓会を開き、本校新築実現を期するために、実行委員8名を挙げて極力運動する事に決す。
 校長及同窓会主催にて学区有力者、区長の参集を乞い新築敷地設定協議会を開催する。
 昨日より引き続き開催、徹夜する。午後6時閉ず。難問題やや進渉す。
 丸茂校長、敷地問題打合わせのため郡役所に出張。
 佐宗郡会議長、敷地問題の件にて来校。2.8同。
 役場にて、本校敷地選定協議会を開催する。村議、区長、敷地選定員全部出席 郡長仲裁案(表者平、木戸口に於て4反歩、川尻学林を実習地に)提出協議す。
 午前6時、仲裁案に決定す。但し、敷地買収費2千円は同窓会に於て調達のこと。
 卒業証書授与式。(卒業式男子12名、女子7名)。
 同窓会総会。
 入学式。(入学生24名、男16女8)。
 同窓会員の尽力により、敷地買収費2千円、調達成攻する。
 堀内内務部長の召電により出庁する。学則変更の件、校舎新築の件、国庫補助の件について打合せをする。
 新築を協議する。新築委員決定。委員長松井兼吉、副委員長斉藤伊太郎。

  
同窓会の決起
 大正7年1月、同窓会は母校新築のために実行委員会を結成して、敷地買収の資金調達に乗り出すことをきめた。
 村の協議段階で、最も難航したのは用地の問題であった。これにはしばしば夜を徹しての協議でもまとまった結論が得られず、ようやく2月10日の早朝に至って、時の郡町根嶺善三郎の仲裁案を採択して、次の条件をつけて敷地を長者平とすることみ決定した。
 条件  @敷地買収費、2000円は同窓会で調達すること。
     A川尻の学林を農林学校の実習地とすること。
 続いて新築委員が選ばれて、陣容も具体的に整備された。大正7年7月14日、農林区会を招集して学校新築費7,200円を可決した。なお、同窓会の尽力によってできた峯田重憲氏外487名よりの寄付金1,800円の採納決議が行われた。7月19日、地鎮祭を行ない、整地作業に着手した。9月に入って建築資材も搬入されて、15日に建築入札が行われ、その結果、大工権田文助氏が500円で請け負うことになり、、建具は竹下庄治郎氏が274円で引き受けた。10月3日の吉日をもって起工式。11月2日、同窓会が中心となり、高里青年団の応援で地撫き、17日が棟上式、その後工事も順調に進んで、大正8年1月1日には新校舎へ仮移転して新年の式を行なった。



本校の歩み
大正8年
(1919)
1.1
3.24
4.10
6.28
7.01

9.16

10.12

10.17

11.07
 新校舎に仮移転を行ない、祝賀式及び移転式を挙行。
 卒業証書授与式。(卒業生男子16名、女子16名)。
 入学式。(入学生男子24名、女子15名)
 午後8時半より誠胆会を開く。
 世界平和克服祝賀会挙行。本校職員、生徒高里青年団の仮装行列。夜、提灯行列を予定の所、雨天にて延期。
 朝より近年稀な暴風雨にて、農具舎、堆肥舎等被害甚だしく、300円に達す。
 校舎落成式を行う。参列者1,500余名。整剣、角力、手踊、煙火、提灯行列。
 校門住建設。(寄附による。斉藤重左衛門、阿部伊三郎、久嶋初吉、丸茂忠雄各氏)。
 全校生徒、鳳来寺山遠足する。(新城一泊)

大正8年10月12日、待望久しかった新校舎の竣工式を挙行。来賓、一般参会者を合わせておおよそ1,500名、作手村としては例のない盛大な式典であった。同窓会、青年団の余興、撃剣、角力、手踊り、花火、提灯行列なども催された。これを祈念に校門の右の門柱が斉藤重左衛門、阿部伊三治、久嶋初吉、丸茂忠雄各氏の寄附によって建てられた。



本校の歩み
大正9年
(1920)
2.11
3.
4.06
4.20
6.25
8.23
 紀元節祝賀式後学芸会及父兄会を行う。農林学校後援会を組織。
 卒業証書授与式。
 入学式。(入学生男子20名、女子15名)
 果樹植込(ナシ、リンゴ。長十郎、国光、紅魁)。
 器械体操場竣工する。
 丸茂忠雄校長、高等官7等待遇に昇進。和歌山県郡賀郡河出農蚕学校長に転任。後任として福井武治第6代校長が着任。

 
校 訓
 丸茂校長は大正7年に本村における最初の奏任校長となったが、大正9年8月高等官待遇に昇進、同23日をもって、和歌山県郡賀郡河出農蚕学校長に転任された。在職3ケ年の間に創立以来の念願であった校舎新築という目玉事業を完成させて作手村を去り、後任として福井武治先生が第6代校長として京都府から赴任された。

 福井校長は学者学究肌の校長であった。農林学校においても農林専門の教科は勿論のこと、普通科の指導を重視して力を注いだ。また、精神的教着面にも自ら率先して当たった。着任後間もなく校訓を制定して、授業前の朝礼でこれを朗読することにした。

                校 訓

       一つ 誠実を旨とし、勤労を愛好すべし。

    一つ 規律を守り、礼儀を重んずべし。




本校の歩み
大正10年
(1921)
5.  女子部の修業年限を3ケ年とする。

 以下大正10年の沿革記録してあるものなし


 
村の文化活動
 作手農林学校は創立以来、よく地域と密着した学校であった。その上、歴代校長が社会教育重視の教育の方針をとり、村教育会の指導などから作手村青年団の活動はすべて他町村に比べて一歩進んでいた。この青年団活動にさらに新しい方向づけがなされたのは大正初期、世界大戦後のことである。
 世界大戦は古い世界を大きく揺れ動かした。日本は戦後の泡味景気に陶酔したり、各種の社会運動に心を動かしていたが、こうした中から新しく祖国を見つめ、これをになって立とうとする崇高な使命感と清純な意気に燃えて日本青年団が生まれた。
 青年団活動は、中央から分団、支団から分かれ、それぞれ地域に即して、正義と友愛、敢闘、奉仕などの信条の下に力強い団活動が営まれ、「地域の花」として信頼と親愛を集めていたが、その中核をなすものは本村に於いては常に作手農林学校の卒業生である。

パイオン・ミネダ
 峯田通俊氏は大正6・7年のころ作手農林学校の教職に就いていたが、その前後を通じて村青年団の育成には特に情熱を傾けた。そして斉藤重左衛門、加藤寿男氏等とともにスポーツを通して新しい指導的役割を推進した華やかな開拓者であり、実質的なリーダーでもあった。たとえば青年団競技の内容に初めてオリンピック競技種目をとり入れたのも峯田氏の発議によるものであった。
 愛知一中では比野マラソン王の薫陶を愛けたという島央氏の提唱による「医学に立脚した体育指導」とあいまって作手村青年団の陸上成績は郡大会においても毎年優秀な成績を収めたが、ここにも不撓不屈の作農魂の現化があった。

改称
本校の歩み
大正11年
(1922)
4.01
4.05
6.20
10.02
10.25
11.11
12.03
 愛知県作手農林学校と改称。
 入学式(入学生男子35名、女子8名)
 アイヌ遺物展覧会(新城小)見学。(第2・3学年)
 修学旅行。東京方面。(〜7)
 創立25周年祝賀会。
 農具展覧会(新城町)見学のため第3学年遠足。
 本校校友会主催農産物品評会。

 
修養団活動
 パイオニア・ミネダの活躍する一方。大正9年ごろから修養団活動も活発に行われた。同胞相愛、流汗鍛錬は標榜する熱心な同志によって、謙虚な自己修練と人類への献身的奉仕活動が地味ではあるが、大きな力となって進められていった。
 村内に於ては木和田(中村)義雄氏が中心の指導者であった。各種幹部講習会にも参加し、汗愛の行者として人々の信望と敬愛を一身に集め、この道に精進された。心と実践を一体とした修養的活動の一面は、人間形成の基礎として教育の面にも取り入れられる面は少なくなかった。
 このような青年団、修養団活動は共に自主的活動を中心とするものであったが、その後時代の要請によって青年訓練所(大正5年)や青年学校(昭和10年)が設置されて軍国調の指導訓練が、重視されるようになったので、自由に盛り上がって行く若者本来の活動は次第にうすれていた。



本校の歩み
大正12年
(1923)
3.03
3.24
4.06
4.25
4.30
7.23
9.06
11.09
120.1
 校内学校生徒合同学芸会。
 卒業叢書授与式(卒業生男子39名、女子15名)
 入学式(入学生男子32名、女子20名)
 第5代福井武治校長、大府農学校長として転任する。
 豊橋へ春季遠足(1泊)
 第6代佐々木久四郎校長赴任する。
 関東大震災の状況に関し、生徒に講和。
 鶏舎建設落成。
 収穫祝賀及び学芸会(収穫祝い、これが最初)

 
大震災   国民精神作興の詔書
 大正12年9月1日、突如として、京阪集落地帯を中心として、関東地方一帯が大地震に襲われ、多くの人命と莫大な財産を失った。
 学校では9月6日校長から関東大震災の状況に関する講話があり、災害地へ生徒の義援米を発送した。


 大震災後の11月10日、国民精神作興に関する詔書が下賜され、学校では11月12日に奉読式と好調訓話とを行った。



本校の歩み
大正13年
(1924)
2.20
3.17
3.18
4.02
4.11
5.11

7.12
9.30
10.16
11.03

12.01
 生徒製作品展覧会。
 剣道大会。
 卒業証書授与式(卒業生30名)
 入学式(入学生男子57名、女子30名)
 生徒夏服注文(名古屋 山内洋服店)生徒の夏服着用これが最初。
 高里青年会場を借用し、仮校舎とし、渡り廊下を設けて、本校舎と連結する。
 学芸会
 関東方面修学旅行。(〜6)
 忠魂碑除幕式並び招魂祭につき、一同参拝。
 全国体育デーには、体育思想の普及と体育練磨を目的として生徒の各部落駅伝競争を行う。
 収穫祭、学芸会開催。

 
大正14年
(1925)
3.19
4.04
5.02
9.
12.16
 卒業詔書授与式。(卒業生男子24名、女子12名)
 入学式。(入学生男子24名、女子16名)
 本宮山に春季遠足。帰途見代発電所見学する。
 愛知工業学校に依頼した校章図案が出来、改定(廃校まで使用する。)
 長篠戦争350年祭式典(長篠村)に男子生徒参列。

大正15年
(1926)
3.18
3.31
4.01
5.01
7.10
10.01
11.05
12.05
12.09

12.25
 卒業証書授与式(卒業生男子22名、女子14名)
 佐々木久四郎校長退職する。
 入学式。(入学生男子33名、女子16名)
 春季遠足。本宮山。
 第8代稲石佐一校長赴任する。
 修学旅行。江の島、横須賀、東京、日光方面。(〜6日)
 本校校友会主催、第1回陸上大運動会挙行。
 村農会主催農産物品評会並に本校生徒農産物品評会。(〜7)
 積雪をおかして全校生徒並びに職員打ち揃って本宮山に参詣し、大正天皇御脳御平兪を祈願す。
 午後3時、本日午前1時25分、聖上陛下御崩御の通知を役場より受く。休暇中の一般生徒に其の旨伝達方を構ず。

天皇御崩御
 大正15年12月25日、天皇には葉山の御用邸において御崩御、26日から昭和と改められた。 ここに大正の時代は、数々の思い出を残して、15年の幕を閉じた。