庶事草創
本校の歩み
明治29年
(1896)
12.
 田原村菅沼組合村長原田市三郎氏と守義村の原田紋右衛門氏が、郡視学田部井鉚太郎氏と相談し、実業補修学校設立の意見を述べその発起をした。


明治30年
(1897)
1.09

1.15
5.02
 本校設立委員会が開かれた。委員長に峯田重憲氏、副委員長に原田紋右衛門氏が選出される。
 学校組合が成立する。
 組合会開く。国庫補助申請書及び学則、予算、校名、位置等を議事(巴村鴨ヶ谷を校地として挙げるが、適当ではないと差しもどされる)


高原の夜明け、世紀のプレゼント         鈴木庶水
 明治30年の頃と言えば、まだ20世紀の前夜とも言うべき時代であった。
 この頃すでに私達の村では、優れた先輩達が将来の村の発展を図り、堅実な明るい村づくりをするためには何をおいても文教振興の施策を第一に取り上げるべきであるとの考えの上に、全国に先駆けて小さな村をユニットとして地域に即した実業学校の創設に乗り出した。このことは、ほんとうに偉大な時代な識見であり、有難い福音であったことを今更ながら痛感する次第である。
 海抜500メートルの高原にもこうして新しい文化の黎明が訪れたのである。そして着々とここに創設されていった学園こそは当時の先輩たちが、愛する20世紀の作手村へ贈った大きなプレゼントであり、魂を打ち込んだ尊い遺産でもあった。以来「百年の計」を策定をされた先覚者たちの識見にたいして、私達は改めて深い敬意をあらわさずにはいられない。

  1月9日 田原村有志を加えて、設立発起人会を作り菅沼、田原、巴の3ケ村組合で設置する話になったが、この時、杉平村外5ケ村からも参加の申し入れがあったので、改めて設立準備委員会(委員長:峯田重憲氏、副委員長:原田紋右衛門氏)を組織して、調査研究することとなった。
 最所はこの委員会によって、学校創設を確定、続いて評議員を選出して、学校の名称、設置の位置、経費などが審議され、具体的に進行していった。委員会の審議の過程においては、学校設置の位置が最後まで難航した。設置の候補地としてあげられた位置が、田原・鴨ヶ谷・清岳・高里であったが、最終的には県属の出張を仰ぎ、その助言によって高里(長者平)と決定。

開校
本校の歩み
明治31年
(1898)
1.23

9.20

10.25









10.26
11.23
 組合会を開く、校地を巴村高里に決定。同日申請。5月30日付をもって、学則を認可され、補助金交付の旨の指令があった。
 学校設置の議を申請し、10月3日付をもって、31年度経費予算の認可を受け、授業料徴収法の認可をも受ける。
 開校、26日開校の旨、文部大臣に上申届を出す。

校名 作手農林補習学校
位置 巴村 高里(正眼寺を使用する)
職員 管理者   峯田重憲
    会計主任 峯田由造
    事務員   杉浦彦治郎
    訓導     安達三子男
    教員     設楽貞ラ
    教員     朝山学導
 気象観測認可申請。同日付をもって、、認可される。
 開校式 (入学生:48名)

明治32年
(1899)
6.14
9.18
9.18
9.29
 本田に田植えをする。
 県視学来校、授業を参観される。
 定期試験(〜27)
 第一回定期試験証書授与式、田部井視学臨席。
 その頃学校の設置と共に忘れてはならない歴史があ2つある
それは、気象観測の開始と文部省実業学務局長の来校である
 1 気象観測の開始
 気象と作手村の生活、ことにこの地の農林業とは深い関係がる。学校としては生徒に気象についての実際的な知識と実務を体得させ、観測所の業務にも貢献する意味において気象観測開始の要望を知事に具申、11月2日付をもって認可された。
 位置はその後、二転三転移動したが、現在ある気象観測所こそ学校の創設と時を同じくする施設で、開始以来90年の間休むことなく、変わりやすい高原の気象をとらえて重要な使命を果たして今日に至ったものである。
 なお、現在は名古屋地方気象台と電話回線で結ばれて、アメダスでおなじみになっている。
 2 文部省実業学務局長来校
 文部省実務学業局長松井直吉博士が、開校間もない頃に来校された。当時は各地の名士が多く訪問されたが、本省の局長が直接僻遠の地まで出張されることは、まず異例なことでおそらく今後には望めないことと思う。
 豊川鉄道もようやく新城駅を開業(明治31年4月25日)したばかりで、作手方面への通行不便の実態は今では想像もつかないものであったと思われる。
 当時生徒のひとりであった高里の斉藤与一郎さんの思い出をうかがってみると次のように語られた。
 「生徒であったので詳しいことは解らんが、何でも文部省閣下が来られるというので、大変なことのようだった。局長さんはお駕籠で来られたように思う。教室で授業を、外で実習を視察された後で、先生方と生徒を集めて訓示された。それから校庭(正眼寺の庭)へ黒松を記念植樹された。その頃から長い間標柱が建っていたが、今のとは違うようだ。」
このお話しにもあるように、現在樹木にある名標は、後年にたてられたものであるが、記念樹は今も亭々として聳え、周りは170cm余り、変わらぬ緑、よく風雪に耐えて、沿革を語りつづっている。



本校の歩み
明治33年
(1900)
2.17

2.24
4.07
7.21
10.17

12.25
 文部属:竹井平四郎氏、佐藤治郎氏、及び林本県属:斉藤郡書記、斉藤管理者:峯田、加藤二村長、横字会計主任来校、会計検査を行う。
 初代川端玉三郎校長赴任する。
 入学式 (入学生 48名)
 東三河4郡共進会 (実習による大麦一升出品する)  
 第1回修学旅行(〜20日)東海農事支場(安城)、
藤川村耕地区画改正ほか。本宮山、経費一人46銭。
 第1回索繩(繩ない)競争。

明治34年
(1901)
2.12
4.05
5.04

9.14
10.05
10.22
11.03
11.12
 組合員会にて、女子部併置の件を可決する。
 入学式 (入学生 男子部 42名)
 4月29日に皇孫殿下(昭和天皇)御誕生により、授業を休み、奉祝の意を表し、生徒一同に祝菓を配与する。
 第一次卒業試験(〜17)
 堆積肥料舎建築に着手。
 第1回卒業証書授与式並びに開校満3年記念式、 卒業生13名。
 天長節祝賀式。式後、第1号学校に植樹する。(イチイの木ほか)
 男子宿舎を高里、夏目宅に移す。

 世に魁けて男女共学制を 
 初代校長着任、明治33年2月24日の発令で宝飯郡一宮高等小学校から、初代学校長として、川端玉三郎先生を迎えた。
 校長着任と共に次第に学校の陣営も整って運営は順調に進んだ。5月には東宮殿下(大正天皇)の御成婚を奉祝したり、秋には初めての修学旅行が行われるなど、思い出になるような行事が次々とあってその年は暮れた。

 明治34年、川端校長は新年早々、上京して文部省に学則変更の件を陳情、地元の要望に基づいて女子部の設置方を強く訴えた。また、4月29日には皇孫(昭和天皇)が御誕生され学校においては校長の訓話があり、奉祝申しあげた。さらに、10月12日、第1回卒業式(13名)が行われ、またこの日開校3周年記念式典が行われた。



本校の歩み
明治35年
(1902)
3.29
4.07
4.15
6.19
6.23

9.10

9.18
9.24
9.29


9.30

9.31
 第2回卒業証書授与式(男 54名 、 女 1名)
 男子部入学式(入学生27名)
 女子部入学式(入学生10名)
 明年3月より大阪市で開催される。第5回内国勧業博覧会へ出品目標を出す。
 文部省視学宮中川謙二郎氏、針ケ谷本部長他来校。各学年の授業、実習地等を巡視の後、実業教育について講話をされる。
 豊川町豊川閣で開かれる三河物産共進会へ参考品として、繭・肥料・種物・植物等の標本、杉苗を出品。
 女子部第1回修学旅行。目的地:三河物産共進会(豊川町)参観。(〜19)
 男子部第3回修学旅行。目的地:三河物産共進会、第18連隊、牟呂新田。(〜26)
 明30日、本郡信楽村大字大海の原野に於て本郡各学校連合第1回運動会挙行につき男子部54名、女子部20名を引率し午前9時出発、午後1時新城着、今夜一同、同町宗堅寺に自炊宿泊す。
 第1回連合運動会挙行につき、午前7時出発。新城駅より汽車にて大海駅に下車し、午前10時より予定の各技を演ず今夜、前日の如く宗堅寺に泊す。
 今朝一同宗堅寺にて撮影し、10時出発、午後4時一同無事帰校す。
 
明治36年
(1903)
1.10
3.02
3.09
3.25
4.04
4.05
7.06

7.31
11.14
 第5回内国勧業博覧会出品物完成。白炭・草履等。
 冬季科を開設する。本科授業後より教授志願出席者9名。(〜14)
 第1回同窓会を開く。出席者20名。
 第3回卒業証書授与式(卒業生 男子部17名 女子部1名)
 入学式(男子部29名、女子部10名)
 第2号学林設定(巴村清岳字須山 2町歩借入)本日より植樹。桧苗ほか。
 第5回内国勧業博覧会へ出品の教育方法成績品、農林教育標本に対し、褒状を下賜される。
 寺用のため臨時休校をする。(〜9.11)
 生徒一同で、桧種を採る。

 知識・技能を広く学ぶ 
  当時の教科内容は、実業教育、ことに農林の実学に重点がおかれていた。そのためには、教室で行われる教師の授業だけにとどまらず広く専門家や技術者の指導を受ける必要もあり、生徒達も進んで農会の技師、種馬所技手、県立農林学校職員などの教えを受けた。
 また、先進地を見学して知識を身につけ、見聞を広めた。学校の修学旅行も研修を大きな目的として行われたことはもちろんであった。

 斉藤与一郎氏の話
 最初の修学旅行であった。安城の東海農事支場と額田郡藤川村の耕地整備地区の見学、それに豊川閣と本宮山参拝といったコースで3泊4日の日程であった。校長先生外2人の先生に引率されて岡崎まで歩いて行き、岡崎から安城まで汽車に乗っただけで帰りは全部歩いた。一晩は一宮の校長先生のお宅へ泊めてもらった。費用は、46銭だった。
 トマトの味
 これは別の話だが、開校と同時に赴任された安達先生は札幌農学校出の若い先生で、着任早々トマトの栽培を始めた。もちろん、今まで見たことのない作物であった。実が成ったある日のこと。実習の後で生徒に一個づつ食べてみよと話された。色のよいうまそうなのを口にしてみてビックリした。なんともいえない異様な味で、吐き出してしまい、文字通り閉口してしまった。しかし、あとで、こうした新しいものを体験できたのも学校に学んだおかげだとつくづく思った。

改称
本校の歩み
明治37年
(1904)
3.13
4.06
4.07
4.09

6.09
7.09

9.08
9.26
10.20
10.
11.07
 組合会を開き、当校を乙種組織とすることが満場一致で可決確定し、認可申請書を出す。
 川端校長、文部省へ出頭し、当校乙種組織について上申をする。
 文部省告示第58号を以って、当校乙種組織の件について認可される。
 入学式(入学生 本科1年15名、2年8名、補習男子部1年20名、2年24名、女子部1年10名、2年3名、3年4名)
 「学則並に概況」を内務省へ届出。
 暴風大雨、9日昨夜より雨量78mm。10日堤防破損の個所あり、稲田被害甚大雨量335mm。11日風やむ、雨量95mm雨量98mm。(〜12)
 遼陽占領祝賀のため午後村社に参拝する。
 木充および亜鉛を購入する。
 台湾台中教育会主催、教育品展覧会へ生徒製作品を出品する。
 二毛作を試みる。1区より12区。
 昨夜来降雪2〜3cm、気温低く、季節は例年より早い。
 
 公立中等学校に昇格 
 川端校長は、明治37年3月文部省へ学校組織について陳情上申したが、その結果4月7日付をもって「乙種程度の農林学校とし、巴村外8ケ村学校組合作手農林学校と改称」を認可され、合わせて、愛知県指令をもって「実業補習学校」を附設することが認可された。
 村に初めて公立の農林学校が出来、それに補習学校が附設される形となった。このことは、制度の上からは大きな充実であり、生徒も先生も村民も、これを校内最高の教育センターとして重んじた。
 すでにこの当時から学校は単に学校教育の場というだけでなの考えに立たず、広く地域の教化、文化活動の面にもあまねく利用された。教育会、農会などの集会、研究会はもちろん、時局講演、各種の講演会も催され、時には学校が主体となって幻燈や農芸の実験を公開するなど、住民とのつながりを深めてよき社会教育の場としての使命をも果たしていった。
 


本校の歩み
明治38年
(1905)
3.23

4.05
4.12

6.08
6.12
6.14
6.15
6.19
6.23

6.29
7.17
7.31

9.05
10.26
10.27
11.14

 作手農林学校第1回卒業証書授与式を挙行。本科卒業生19名、補習男子部21名、女子部4名。
 入学式(入学生本科1年21名、補習男子部1年32名、女子部1年12名)
 生徒各村出身者調査(巴66、田原17、菅沼3、杉平5、高松5、大和田5、田代2、保永4、東加茂7、計114)
 昨夜来寒気甚しく気候不順。
 本日より入梅
 昨夜来暴風雨。雨量79.1mm。
 二毛作麦刈入れ。此の頃来雨天に付はざかけにする。
 霖雨につき、農家並に春蚕上困難を極む。麦不良。
 種類試作麦刈り入れ。畑のまま、発芽するに至る。霖雨のため近傍の麦はほとんど腐敗、収穫皆無のところあり。
 本日ようやく晴れる。但し、雨量6.7の間とす。
 養蚕実習勉励生へ賞品授与式を行う。
 補習学校部は明8月1日より31日までを夏季休暇とする。本科は3部に分けて実習とする。
 堆積肥料舎改築に着手する。
 開校7年記念式を挙行し、引き続き同窓会を開催する。
 平和克復につき、本校祝賀式並びに勅語奉読式を巴小に於て行う。
 修学旅行、14日天皇陛下、大廟御参拝、明15日豊橋駅御通過に付き奉迎を兼ね、牟呂新田(修学旅行として、生徒48名を斉藤組合長、川端校長、杉浦助教輸付添、本日午前7時出発。本宮山参拝、豊川町に出て汽車にて豊橋町着。第18連隊及び豊橋動物園参観。此の夜、宮路館に宿泊し、活動教育写真を視せしむ。15日 奉迎 午前10時50幾分、天皇陛下豊橋駅御通過に付き、構内に於いて奉迎。御無事御通過遊ばされる。生徒及び職員は、11時20分牟呂新田へ向けて出立。新田視察の後、豊川鉄道にて新城着。此の夜斉信亭に宿泊す。16日 旅行、今朝新城高等小学校参観の後、午前10時出立。雁峯山を経、無事帰校す。今回の旅行費用一人当71銭なり。

 第1回卒業生、斉藤隆治氏の思い出 
 「日露戦争のことは強く心に焼きつけられた。何が何でも戦争に勝ってほしいという一念であった。ラジオもテレビもない時代で、学校に来て先生に聞く戦争の話や、数少ない新聞などを見て戦争を想像した。学校の実習も戦争のことを思って頑張っていた。先生も生徒も地味で真面目であった。学校にも寄宿舎があったが、たいていの者は歩いて通った。明治36年に杉浦(重)先生が赴任されたが、毎日小林から徒歩通勤であった。修学旅行も観光的に楽しむというよりも何物かを学びとるといった真面目な態度であった。出征軍人の送迎には隊伍を整えて行進し、色々な軍歌を歌った。」

 国家情勢緊迫(日露開戦) 
 開校してから6年目、明治36年を迎えたが、この頃、国際的には日露の国交が次第に緊迫の度を重ねて、雲行きは大変険しいものとなっていった。それが年を越して37年の正月の頃にはすでに国交断絶に近い状態にまで進んだ。
 明治37年2月4日 宮中において御前会議、10日、国交断絶、即日宣戦布告となった。国運を賭しての大戦に国民は悲壮な決意と異常な緊張に包まれた。
 郷土部隊の第2師団には3月6日に動員が下がり、管下の豊橋18連隊、静岡34連隊が相次いで出征、作手村へも3月9日に最初の召集があった。
 前線将兵の苦労に共に銃後を守る村民の決意もまた強固なものであった。当時はマスコミの発達も不充分であったので、戦場の様子を詳しく知ることができず、遅れて配られる一枚の新聞や号外を部落中の人々が囲んで遠い戦場に遥かな思いを駆せながら、色々な評定を繰り返すということが多かった。
 本宮山への月参り、氏神様への日参りなどはどこの部落でも行なっていたようだ。
 教員会、農会等が中心になり、時局の講演会や幻燈の会などを催して銃後の心得を教え、戦意の高揚げをはかった。富国強兵の風潮は軍国日本の国策でもあり、勤倹尚武の思想とともに農村にもよく浸透し、生徒達にも貯金が奨励された。明治37年6月に農林学校生徒についての貯金高の調査が行われたが、その結果は次のようであった。
 貯金総額、65円47銭5厘。貯金をしている生徒、22人。一人平均貯金高、2円97銭5厘強。
 この頃、戦意の高揚と相まって、軍国調の戦争唱歌が学校においても取り上げられ、巻間においても、一般に軍歌が歌われた。
 農林学校には正式には音楽という教科は持たなかったが、生徒達は世の風潮につれて軍歌を盛んに歌い、士気を鼓舞した。なかでも好んでよく歌われたのが、「軍神広瀬中佐の歌」と「橘中佐を称へる歌」であった。一般的には戦友が国民感情によく合致して、代表的ヒットソングとなった。

改称
本校の歩み
明治39年
(1906)
3.23
4.04
4.07

4.23
5.01

6.16
6.20
6.30

7.24.
9.08
10.06

10.31
 卒業証書授与式(卒業生本科10名、補習科男子部20名、女子部2名)
 入学式(本科1年17名、補習男子部1年27名、女子部1年13名)
 開校記念式典を挙行する。午後1時より同窓会開催。同窓会より東海三県凶作地へ救援義捐金として金一円送る。
 神谷校医来校、体格検査。(トラホーム患者24.6%)
 本日より巴村外8ケ村合併、作手村と称す。元杉平村外5ケ村組合村長峯田重憲氏村長事務取扱いを命ぜられ、当校管理者に任命される。
 田植実習。乾田式、水田式稲代跡、二毛作跡等の試作をする。
 高里の二毛作調査(計27戸、1町3段1畝10歩、収穫25石余)
 生徒の貯金調査(計268円53銭1厘、一人当たり2円39銭7厘、最高24円22銭1厘、最小10銭)
 牧草オルチチャードグラス種子。生徒に配布する。
 第3回三河物産共進会へ出品申込(トマト・杉苗等)
 文部省に於いて全国実業学校長会が開かれ、川端校長参加する。大阪府農業校長、大分県立農学校長等と共に、農業部の議案選択委員に指名される。(〜12)
 巴村8ケ村合併、1村となり作手村と称し、峯田重憲村長就職。本校作手村立に組織変更、職員従前のように任命される。(明治40年1月9日、文部省より認可される。)

 害虫退治も意欲的に 
 この頃、麦の黒穂が目立って増え、また桑園の害虫「桑葉虫」が大量発生した。学校では全校生徒を動員して「クロホキン撲滅」と「桑葉虫退治」を行ったが、クロホキンはクロバトキン(露国軍事命官)にも語呂が似かよい、戦意高揚にも相通ずるものがあり、成果は上がり1ケ月の間に次の実績を収めた。
黒穂抜き:181,550本。 桑葉虫:54,785匹。

                     村は一本に!!
 明治も未葉に近づく明治39年5月1日、県告示をもって従来の9ケ村統合にする新しい作手村が誕生した。村長事務取扱者には、峯田重憲氏(後初代村長)が就任された。
役場は、作手村大字鴨ヶ谷 甘泉寺
村の統合にもとづいて文部省は明治40年1月9日付をもって、学校の名称次のように改めた。
       作手村立作手農林学校



本校の歩み
明治40年
(1907)
3.21

3.23
4.05
4.11

10.25
 本校主催農産物品評会教育品展覧会を開催する。時々理化実験を行い公開する。観覧者10,000名(〜23)
 卒業証書授与式(卒業生本科15名、補習男子部24名、女子部5名)
 入学式(入学生1年21名、補習男子部1年13名、女子部1年12名、2年1名)
 陸軍省より明治37・38年戦後戦利品を下付される。(軍刀 連発歩兵銃、単発歩兵銃、単発銃銃剣、三吋速射野砲薬葵、鶴他、計13点)
 同窓会開催。第1回学芸会を挙行。

明治41年
(1908)
3.24
4.01

4.08
5.17
5.28

5.29
7.25
7.31
10.26
11.05

12.17
 卒業証書授与式(卒業生本科12名、補習男子部19名、女子部5名)
 編入式を行なう。義務教育が延長されたので、補習1年生への入学生はなし。(補習男子部2年13名、女子部2年8名、3年7名、本科1年11名、2年16名)
 本日より毎日数時間ずつ模範桑園の開堕地に於いて、地均し、実習する。
 模範桑園の開墾成る。新築すべき模範養蚕室地形を固める。
 村会の結果、新たに大和田、高松の二大字を当校学区に編入し、計9大字を以って組織することとなる。
 養蚕室上棟式。
 養蚕室竣工。
 夏期休暇。但し、本科生全体は、夏蚕飼育実習のため毎日登校する。(〜8/31)
 戉申詔書、本月13日御発につき、本日棒読す。
 本年稲作種類試験の結果が出る。(1坪当、大和錦4升7合、千葉錦4升7合、瑞穂司4升、保村早生4升、奥州早生3升、玉錦1升)
 開校満10周年記念式。戉申詔書棒読式、農産物品評会、教育品展覧会、養蚕室竣工式、学芸会を行う。

明治42年
(1909)
2.17

3.25
4.01
4.05
4.22
5.19
11.03
 学則改定、男子部を3ケ年に延長し、新たに女子部2ケ年を設ける件、村会議員及び区長全体の満場一致の賛同を得、認可申請する。
 卒業証書授与式(卒業生男子部15名、女子部5名)
 川端校長、長野県上水内郡西部農学校長に任ぜられる。
 始業式並びに編入式。本年度も新入生なし。附設補習学校を廃止する。
 第2代丹羽信吉校長赴任する。
 本校学則変更申請、認可される。
 天長節拝賀式。本校栽培の甘藷試食会を行う。

校長異動
 初代川端玉二郎校長は着任以来42年までの9ケ年を、最も困難な学校創設期の校長として大きな功績を残して長野県西部農学校に転任され、後任として島根県から丹羽信吉校長を迎えた。
 丹羽校長は着任早々戉申詔書拝戴設念事業のひとつとして、二宮尊徳翁の精神に学んで勤労奉仕の制度を定め、毎日課外1時間位ずつ校舎内外、実習地などの作業を自発的に行うことを奨めた。



本校の歩み
明治43年
(1910)
3.24
4.05
4.08

10.23
10.31
 学則変更後、第1回卒業証書授与式。(卒業生男子部6名、女子部3名)
 入学式(1年20名、3年2名)
 修学旅行。全生徒が、関西府県連合共進会(名古屋にて開催)見学。伊勢大廟参拝の修学旅行を行う。(県外に出た最初の修学旅行)(〜14)
 村教員会主催で、村内各学校連合運動会を開く。
 第5師団機動演習観覧のため、新城町付近に遠足。

明治44年
(1911)
3.24
4.01
4.05
10.3
 卒業証書授与式(卒業生男子部28名、女子部4名)
 本村役場新築竣工し、本日移庁式、職員・生徒一同参列。
 入学式(男子部16名、女子部8名)
 修学旅行。豊橋市、弁天島、奥山半僧坊。(〜8)

明治45年
(1912)
3.23
4.04
6.10

7.30

  




9.14
  卒業証書授与式
 入学式(入学生31名)
 文部省視学官小西重直氏、県視学石川林之助氏、郡視学原乙三氏来校。小西視学言より、余己知の範囲に於いては全国一との評を受け。
 天皇陛下御前零時43分崩御、御皇太子殿下直ちに践祚神器渡御式行はせられし赴き郡衛より午後5時通知ありし、依って授業を休止し、一般生徒に知らきめ哀悼の意を表すること併に大喪中の中の心得を訓辞して種々の公報によりて今後の心得を知らしむこととせり。

大正元年7月31 元号 大正と改まる


 御大葬により休業(〜16)
 

 明治45年7月25日、その筋より天皇ご不例の通知があった。学校では校長から訓話があり、ご快癒を祈念申し上げたが、30日午前零時43分にご崩御、31日から大正と改めた。
 大正元年は明治45年7月31日から始まってので、その154日間であったが、ご大葬が行なわれ、諒闇の年としてしめやかな中に終わった。ご大葬の儀は14・15・16の3日間に渉って行われたが、全国民は休業、遥拝式を行って丹羽校長から訓話があった。